EPISODE 1 破産までの道 1

 初めまして!!! プリッサと申します。

ブログ名やタイトル通り負のオーラ満載の者ですが、本日よりブログを始めました。

何卒よろしくお願い致します。

 

 「こんな陰気なタイトルで何を語るの?」とお思いの方が大多数かと思いますので

第一話目と二話目   三話とに掛けて、どんな人物が何の為に語るのかを書きたいと思います。

 

 それではまず自己紹介を。

プリッサこと私、1976年生まれ。B型で獅子座の男性です。

生まれた時から商売を営む家庭で育ち、正直なところ何不自由なく育ちました。

理解のある両親のおかげもあり、中学生から高校3年生迄の6年間はレーシング

カート(レース活動)に没頭させてくれました。非常に高額なスポーツでしたが、商売を営んでいた事と、その当時はバブル期だった事など沢山の運にも恵まれていたので出来た事だとは思いますが、やはり、両親の理解が熱かった事が今となっては一番大きかったなあと度々感じることがあります。

 

 カートをさせてもらっていた影響もあり、将来はレーサーになるという目標で

活動をしていましたが、やはり世間には速い人間が五万といる事と、やはりボンボンだったのでしょう。6年間思い続けていた夢も早々と諦めるのでした。

 そうして将来の進路を何にも考えないでいた高校3年生の秋、家業を継ぐと言う選択肢にたどり着き、専門学校へ通う進路となりました。

 

 家業の内容は縫製業。つまり、洋服の既製服工場です。

実は、縫製の仕事は祖父の時代からで、祖父の時代はオーダーメイドでした。

お客様が来店し、生地を選びデザインを伺い、採寸後お客様の体型に合わせた洋服を

お渡しするというものでした。

 

 一方父が営んでいた工場は、読んで字のごとく既製服ですので大量生産。祖父の様なオーダーメイドの時代は厳しい状況でしたので、父がゼロから立ち上げた会社でした。その父の後を継ぐべく専門学校に入学後、後に外の釜の飯を食うと言う事で同業者の会社へ就職しました。その後約2年間お世話になり、家業に戻りました。

 

 両親の会社では社員と外注様がおよそ30名程所属しておりました。取引先は市内の地場メーカー様が70%程で、残りの30%は関西方面の仲介業者様より結構有名なハイブランドの商品を生産しておりました。

 

 家業に戻った当時はまだ仕事量もありましたが、利益は好調とは言えない状況でした。その原因は3つの要因によるものでした。

 

 1、”ファストファッション” の流行。

 2、人件費の高騰。

 3、縫製に従事する人手不足。               

 

 海外での安価な人件費で生産された商品が巷で流行し、洋服への価値観が崩壊。そうなると日本製の高価な商品が売れずらくなって行きました。日本製メーカーもなるべくコストを安くする為、加工賃を安く交渉してきたりその上、度を超えるような検品をする様になり

「どこが不良なの?」

と思いたくなる程に細かい品質要求や、修理返品を強いられる事が頻繁に起こる様になって行きました。勿論、修理に関しては無料ですので売り上げになりません。そこに加えて人件費増大の波。銀行からの借り入れも凄まじい勢いで減って行きました。

 人員にしても若い世代が育たず、入社しても長くて2週間もてば良い方で、従事している方々の平均年齢も55~以上と年々上がって行きました。しかし、どう言っても人間年を重ねるのは当たり前のこと。働いて頂いている方が居る事は有り難いと思い、何とか頑張って頂いてましたが、やはり歳を重ねる毎に生産スピードも落ちて行き売上減少に拍車を掛けて行く事になりました。

 

 家業へ戻って約5年。借り入れも底を尽き、今後の身の振りを家族で会議しました。

     【家業をたたむのか、どうにかこのまま継続するのか】

                               この2択です。

勿論たたんでしまうと、

  「何の為に学校も出て他所の釜の飯を経験し、今日まで頑張って来たのか!」

ってなりますよね。そこで私は迷わず会社を私名義の新会社とし、当初思い描いていた継承の仕方とは違いましたが、家業のバトンを受け取る事になりました。

 

 文書をを書き慣れておらず、「ブログってこれで良いの?」って迷いながら5時間位かかってここまで書きました。この続きである倒産迄のお話は第三話迄に掛けてご紹介させて頂きますね。しょーもない男の拙い文章にここまでお付き合い下さりありがとうございました。

 では、第二話で!