EPISODE2 破産までの日々②

 こんにちは。今回2話目は両親からバトンタッチしてから技能実習生の受け入れ迄の4年間を、お話ししようと思います。

 

 事業を継承するからには、先代の会社よりも大きく強固な会社にする事が大前提であります。どんな職種であれ、時代が流れている事は平等です。ですから、第一話で述べた3つの悪要素を解決し前に進んで行く事は経営者であれば当たり前の事であり、勿論私も直ぐに行動に移しました。

 

 まず、2つの改善策を計画しました。

    ① 業界の仕事の流れを見直し単価を以前より増収する

    ② 技能実習生受け入れ(中国人)

 

 アパレル業界の大多数の仕組みとしては、

 

 売店←←←←←←←←企画メーカー←←←←←←←←工場

 

① 業界の流れとしては、企画メーカーがデザインを沢山の多数の小売店様に提案 (直接営業したり、展示会などし、ロット数を決める。

  ロット(着数)決定後、生地やその他資材を発注し工場へと発送する。

  我々工場に資材到着後、

  

  裁断→縫製→まとめ作業(釦付けや手まつり等の手作業)→検品

  →仕上げ(ハンガーに掛けてアイロンがけ)

  

  この様な工程を経てメーカー様に納品されます。

 

  工場から商品を受け取ったメーカー様は、多数小売店様の受注数に仕分け

  梱包して各小売店様に発送され、販売されます。

 

  ここで余談ですが、小売店様 メーカー様 工場のそれぞれの金銭的な取り分とリスクについて少し触れてみたいと思います。

 

  例えば¥10000の商品があったとしましょう。

 

  小売店様は、メーカー様より売値の35%~55%(¥3500~¥5500で仕入れます。

  ですので、簡単に言えば¥6500~¥4500の利益になります。

  メーカー様は35%~55%の中から必要経費や人件費、利益等を差し引きします。

 工場がいただける分はその残りとなります。%で言うと、5%~12%(¥500~¥1200)程になります。

  ですのでメーカー様の取り分は、単純に30%~43%になります。

 

  ¥10000の商品も、実際縫製工賃は¥500~¥1200で縫製されている事に

なります。

 まあこの様な説明の仕方になると、いかに工場が安くタタかれているかと被害じみた話になりそうなので、ここでリスクの説明も。

 

  工場は月に1~2度締日にメーカー様へ縫製加工賃を請求します。

  それから15日~45日後全額入金されます。

  

  一方メーカー様も同じように、小売店様に月に1度請求します。

  ですが、そこで全額入金とはいきません。

  なぜなら最初にロットを決定する際に、受注数よりも多めに生産決定します。

  それはもし小売店様より追加発注があった場合即発送出来る様にする事と、なるべく工場に対しロット数を多くし生産効率を上げさせる為のやさしさモラルの様なもので考慮されています。

  追加発注がなければ、その分マイナスです。

  しかも大手小売店様(チェーン店など)相手だと手形取引となり金湯機関に

対しても多大なる信用も必要です。信用がなければ手形から現金になるまで

3か月~10か月待たないといけまん。その間の生地代 資材代 人件費等を考えると相当なものだと思います。

 

  それから小売店様ですが、1番取り分が多いように見受けられます。ですが全ての商品が当初の売値で完売するとは限りません。

  売れ残った物は仕入れ値よりも安くしてバーゲンにて販売されます。

  お客様への還元も見越して仕入れて、シークレットセールやその他催事を開催したりして、リスクを張り運営されています。

 

  ここでまとめると、工場の取り分は少ない様に見えますが、月に1~2度全額いただけます(メーカー様が倒産しない限り)。在庫リスクがありません。.

  しかしメーカー様も小売店様も、取り分は多い様に見えるもののリスク抱えている為、それぞれの立場にも善し悪しがあります。

  

  まあどの業界にも同じ様な縮図があり、別にアパレル業界が特別悪しき環境で流れて行っている訳ではないですが、余談としてアパレル業界の流れを書いてみました。

 

  本題に戻りますが、このようなひっ迫した業界でどの様に生きて行くかを考えた時、工場という立場が一番ゼロからモノ作りが出来るのではないか!?何らか工夫出来ないか!?と考えました。

  そうです、直接小売店様と付き合えないかと思いつきました。

 

  売店→→→→→→工場

 

  メーカー様の立場である企画を工場が抱え、直接小売店様に営業しメーカー様の取り分を折半すれば、お互いwin winの関係になれるのではないかと踏んだ訳です。メーカー様に対しては

 

  「裏切り行為になるのでは!」

 

と思われるかもしれませんが、ここはわたくし、正直にメーカー様にこの事を報告しました。すると、

 

 「販売先が同じで無ければいいよ!」

                                        との事。

  その当時の取引メーカー様は5社程ありましたが、5社とも同じ様な返事を頂ました。

    なぜその様な返事を頂けたかと言うのもこの不景気の中、メーカー様も1年中仕事を出し続ける事が厳しく、閑散期に独自にでも工場が仕事を埋めて行き残るのであればと言う理由からでした。

 

  こそこそとせず、堂々と取り組める事で行動に移せました。

  まず、雑誌からトレンドのアイテムを選び出し、当時交際していた彼女(現妻)にも提案してもらい、即数点をサンプル化し数十店舗をインターネットで調査し営業へ向かうのでした。

 

  考えてみるとわたくし、営業の経験ゼロでした。高校を卒業し専門学校へ入学するも、作る事ばかり学んでました。

  しかし「出来ない!」と言う文字はその時の私にはありませんでした。

  むしろ新しい取り組みに対しワクワクでした。

 

  しかしながら、数十社廻っても買い取ってくれるお店はありませんでした。

  それでもメゲづに営業に廻りました。その中で、「委託ならばいいよ!」

  と言うお店が数社ありました。委託とは、買い取りではなくお店が商品を預かって売れた分だけ請求し、売れ残った分は返品と言うものでした。

 

  そうです、これはリスク大です。既製服工場が生産するにあたって、ロット数を一着でも多く一度で着手する事により、生産効率を上げ利益率を上げて行かなければならないのは当然です。売れるか売れないかわからない商品を大ロットで生産し、売れなければ大損害です。

 

  思い切って判断した私は、生産効率よりもまずは弊社の事業提案を理解して頂く為、小ロットで生産し委託で取り組みました。

  そしてもう一つ提案したのが、お店からデザイン提案してもらい、それを短納期で仕上げて納める。尚且つお店独自のブランドネームを付けると言うものでした。

  お店が一番のトレンドのアンテナではないかと思い提案したのですが、これが中々好評で当時の弊社の売上シェアの20%を占めるまでになりました。

 

  受注面であるソフト部分は少し好調になりつつある弊社でしたが、先ほどの改善策

  ②にもあるハード面にも同時に着手しました。人材の確保です。

 

  どんな業界でも人材不足を叫ばれている昨今、実はこの縫製業は、90年代よりその波が押し寄せて来ていました。入社しても2~3週間で何も言わず来なくなったり、募集をかけても何も問い合わせすら無い状況でした。

 

  そこで国が推進する「技能実習生制度」を利用しハード面での問題に対応する事になりました。

 

  今回も文章素人の拙いブログにお付き合い頂きありがとうございました。

  ここまで書くのにやはり5時間と時間が掛かってしまい疲れました。

  次回3話目では技能実習生を受け入れてから、倒産までの8年間を書きたいと思います。       

  

 

    

 

  

  

 

  

  

  

EPISODE 1 破産までの道 1

 初めまして!!! プリッサと申します。

ブログ名やタイトル通り負のオーラ満載の者ですが、本日よりブログを始めました。

何卒よろしくお願い致します。

 

 「こんな陰気なタイトルで何を語るの?」とお思いの方が大多数かと思いますので

第一話目と二話目   三話とに掛けて、どんな人物が何の為に語るのかを書きたいと思います。

 

 それではまず自己紹介を。

プリッサこと私、1976年生まれ。B型で獅子座の男性です。

生まれた時から商売を営む家庭で育ち、正直なところ何不自由なく育ちました。

理解のある両親のおかげもあり、中学生から高校3年生迄の6年間はレーシング

カート(レース活動)に没頭させてくれました。非常に高額なスポーツでしたが、商売を営んでいた事と、その当時はバブル期だった事など沢山の運にも恵まれていたので出来た事だとは思いますが、やはり、両親の理解が熱かった事が今となっては一番大きかったなあと度々感じることがあります。

 

 カートをさせてもらっていた影響もあり、将来はレーサーになるという目標で

活動をしていましたが、やはり世間には速い人間が五万といる事と、やはりボンボンだったのでしょう。6年間思い続けていた夢も早々と諦めるのでした。

 そうして将来の進路を何にも考えないでいた高校3年生の秋、家業を継ぐと言う選択肢にたどり着き、専門学校へ通う進路となりました。

 

 家業の内容は縫製業。つまり、洋服の既製服工場です。

実は、縫製の仕事は祖父の時代からで、祖父の時代はオーダーメイドでした。

お客様が来店し、生地を選びデザインを伺い、採寸後お客様の体型に合わせた洋服を

お渡しするというものでした。

 

 一方父が営んでいた工場は、読んで字のごとく既製服ですので大量生産。祖父の様なオーダーメイドの時代は厳しい状況でしたので、父がゼロから立ち上げた会社でした。その父の後を継ぐべく専門学校に入学後、後に外の釜の飯を食うと言う事で同業者の会社へ就職しました。その後約2年間お世話になり、家業に戻りました。

 

 両親の会社では社員と外注様がおよそ30名程所属しておりました。取引先は市内の地場メーカー様が70%程で、残りの30%は関西方面の仲介業者様より結構有名なハイブランドの商品を生産しておりました。

 

 家業に戻った当時はまだ仕事量もありましたが、利益は好調とは言えない状況でした。その原因は3つの要因によるものでした。

 

 1、”ファストファッション” の流行。

 2、人件費の高騰。

 3、縫製に従事する人手不足。               

 

 海外での安価な人件費で生産された商品が巷で流行し、洋服への価値観が崩壊。そうなると日本製の高価な商品が売れずらくなって行きました。日本製メーカーもなるべくコストを安くする為、加工賃を安く交渉してきたりその上、度を超えるような検品をする様になり

「どこが不良なの?」

と思いたくなる程に細かい品質要求や、修理返品を強いられる事が頻繁に起こる様になって行きました。勿論、修理に関しては無料ですので売り上げになりません。そこに加えて人件費増大の波。銀行からの借り入れも凄まじい勢いで減って行きました。

 人員にしても若い世代が育たず、入社しても長くて2週間もてば良い方で、従事している方々の平均年齢も55~以上と年々上がって行きました。しかし、どう言っても人間年を重ねるのは当たり前のこと。働いて頂いている方が居る事は有り難いと思い、何とか頑張って頂いてましたが、やはり歳を重ねる毎に生産スピードも落ちて行き売上減少に拍車を掛けて行く事になりました。

 

 家業へ戻って約5年。借り入れも底を尽き、今後の身の振りを家族で会議しました。

     【家業をたたむのか、どうにかこのまま継続するのか】

                               この2択です。

勿論たたんでしまうと、

  「何の為に学校も出て他所の釜の飯を経験し、今日まで頑張って来たのか!」

ってなりますよね。そこで私は迷わず会社を私名義の新会社とし、当初思い描いていた継承の仕方とは違いましたが、家業のバトンを受け取る事になりました。

 

 文書をを書き慣れておらず、「ブログってこれで良いの?」って迷いながら5時間位かかってここまで書きました。この続きである倒産迄のお話は第三話迄に掛けてご紹介させて頂きますね。しょーもない男の拙い文章にここまでお付き合い下さりありがとうございました。

 では、第二話で!